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物騒とは?/ ノーローン

[ 493] 物騒な話題の雑感 - finalventの日記
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080421/1208763412

「動物化」というのはわからないといえばわからない。勉強が足りませんなこりゃというのは率直に認めるけど、対立する概念が「人間」であるなら、そういう人間は、フーコーじゃないけど終焉したのではないか。
近代が「人間」を作り出し、それが終焉して、管理化された動物的な存在が現れるということなのか、私としては、人間の終焉の後に出てきたのは、断片だと思う。知性や技術によって断片化した存在。あるいは経済によって断片化した存在。
かつては、というかルネサンス的な人間では、そうした断片を恋愛とかまさに人文みたいなもの、あるいはドイツの教養小説(ビルドゥングスロマン)みたいなもので統合された人間を描こうとした。でも、それはかなりもうダメなんじゃないか。
では、人間は断片化されっぱなしなのか。そこはよくわからない。というのはこれは技術=ゲシュテルという存在の開示と関係していると思うからだ。単純な話、GoogleやWikipediaみたいのは断片の非人間性をブーストすることで無駄な断片性をむしろ抑制して人間に人間的ななにかを返却しつつある。両義的なんだけどね。
あと、信頼というのは度数的になる場合、実はその度数によって、人間個体間が関数化されている。つまり、人間の信頼は計量的になってしまう。むしろ、人間を作り出した近代は国家=一般意志を介在させることでそこから個を救い出した(非計量的に)。で、これはかつての中世的な神と人とのλ(Λ)的な関係性でもあるというか、中世においてやλ的な関係ではなくて、ゲマインデと神の関係があった。その意味でλ関係はプロテスタンティズム的というか近代的なもので、絶対神というのが地上の教会から隔絶されたときに必然的に出てくるものだったのかもしれない。その意味で、友愛原理というのは、背景に絶対神的な信仰の共有があるというか、密儀をかならず持っている。
近代におけるナショナルなものは、むしろ中世的な階層性あるいは重層性を包括するところで成立した。ドイツなんか実際には、プロテスタントの文化とカトリックの文化は別だし、国家が成立するにはその統合性が求められた。ところがそれがプ文化とカ文化を統合するというよりうまく機能せず、むしろその暗在的に統合を実質担っていたのがユダヤ文化だった。その意味で、近代にいたるドイツ文化というのは、実はユダヤ文化と言ってもいいくらいかもしれないが、そこで国家の統合性が逆に機能してそこを排除してしまったのではないか。
アウシュビッツというのはジェノサイドなのだが、ジェノサイドという行為はけっこう西欧において頻繁に起きるし、中近東でも起きる。どうも元の概念は旧約聖書のようでもある。つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にこれらは同じ根をもっているっぽい。このあたり、日本人はジェリコの戦いとかあまり普通に知らないっぽい。日本人キリスト教徒もあまり考えてないっぽいというか、信仰とのこの問題の関係がよくわかってないっぽい。
エリコ大虐殺(-だいぎゃくさつ)は紀元前1300年~1200年前後のパレスチナで行われたとされるカナーン人の大虐殺である。イスラエル人の指導者ヨシュアと古代イスラエルの連合軍によってなされた。聖書によればエリコ市民は女性や子供・乳幼児も含めて全員虐殺されたという。
史実ではない可能性は高いのだけど、このとき聖書の神はこの虐殺を命じている。このあたりの感覚が日本人にはわかりづらい。
この意味の聖絶は、通常は、イスラエルに敵対する異民族(通例は町単位)に対して、「彼らを聖絶する(一般の翻訳聖書では「滅ぼし尽くして神へ捧げる」)ので自分たちに力を与えて欲しい」というように神へ誓願する形で行なわれる(民数記21:1〜3)。聖絶対象とされた敵対異民族は全員が剣で殺され、また家畜も含め生けるものは全て殺戮された。通常の戦闘では許される女子どもの捕虜も、また家畜などの戦利品も、聖絶においては自分たちの所有物とすることは許されず、全てが神への捧げ物とされる。それ以外の剣でもって滅ぼせないものは火をもって焼き尽くされ、また、燃やすことの出来ない金銀財宝などは神殿の奉納倉へ納めて、「呪われた汚らわしきもの」として民衆の手からは隔離されなければならなかった。そして、聖絶のものを私物した者は、神の怒りに触れるものとして、罰として処刑された。
現代のキリスト教、ユダヤ教では聖絶を表向き肯定する意見は比較的少数派である。しかし、神学上の解釈に於いては猶「この聖絶は神の御心に沿ったものであり、現代では許されないことだが当時は正しかった」とする意見が根強い。しかしこの聖絶という行いは現代風に言えば間違いなく「民族浄化」に他ならず、ユダヤ人のホロコーストを想起させざるを得ない行いである。聖書の無謬性を重んじるか、普遍的人道を重んじるかでクリスチャンやユダヤ教徒の解釈も割れている。
聖絶には「呪われた汚らわしきもの」というのを清めるという発想がある。血統を根絶する=その子孫を残さないようにする、というのが清めるに結びつく発想の原形からこうした諸宗教の発想が出てくるのであって、特定宗教が聖絶を作りだしというのではない(特定宗教が限定ではないんじゃないかということね)、というか、すでにあった俗習的な発想が宗教的な比喩の段階に登るというのが聖絶の意味だろうと思う。このあたりの発想は、たぶん、日本人には理解を絶しているだろうと思う(日本人の「清める」はみそぎとかね)。
まぁ、finalvent さんは先刻承知で書いてるのだろうけど、ドイツのホロコーストは「同じ市民」に対するジェノサイドで、ここで出てるジェノサイドはむしろ蒙古襲来絵図的なのでは。
通っているバイブルスタディの講師が、「神への信のありかた」について説明する際、「○○は息子たちをカナンの娘と結婚させるのを嫌がりました。当時のカナンは堕落しきっていたからです。民が約束の地に入るにあたって、神がカナンの諸国を滅ぼせと言ったのはそのためです。神は『男も女も子ども(babies)も動物も根絶やしにせよ』と命じ、最初の数ヶ国については人々は神に言われた通り、相手を根絶やしにしましたが、(人間は弱いので)だんだんと『こんな小さな子どもは殺せない』とか『こんなきれいな娘、殺すなんてもったいない』という者が出てきて命令が徹底されなくなり、その結果、彼らの兵力は弱くなりました」と旧約聖書から引いてさらっと説明した時、「ああ、やっぱりこの人(たち)とは全然違うんだ」と(或る程度予測はついていたものの、それでも)頭を一撃されたような気がしました。(この時「メリバの水」についても引かれ、説明としてはどちらかといえばそちらに重点を置いていたようですが。)(モーセとアロンが神の命に「背いた」ため、約束の地を踏むことを許されなかった、というあれですね。)彼女の感覚がどの程度一般的なのかわかりませんが、そのいかにもさらっとした何気ない言い方からそれが決して珍しい感覚ではないのだろうなと思いました。その後家に帰って出エジプト記後半から民数記、そして申命記からなんとかヨシュア記の9章まで聖書の記述を追ってみたりもしたのですが、結局当面は自分にとっては「理解できないもの」「受け入れられないもの」として頭の片隅に保留しておくことにしました。その過程で何となく思ったのは、私がそれを受け入れられないのは「自分が虐殺される側であったら」ということをまず考えるからなのですが、それでいてそれを受け入れないことによって「自分が虐殺される側」に立つことに関して思考が停止してしまっている(結局そういう立場に自分が置かれることを考えないようにしている)ようなところがある、ということです。翻ってアメリカ人・・・・・・例えばバイブルスタディの講師のような考え方をする人は「自分が虐殺される側になりうる」ことに思い至っていないのか?いや、ひょっとしたら「自分が虐殺される側になることもある」というのは私なんかよりも重々承知なのかもしれない。アメリカ人に城の守りというか自分(と家族)の守りがものすごく固い傾向があるのは、(虐殺に限らず)自分が理不尽な暴力にさらされるかもしれないということが頭で考える以前の問題としてわかっているからなのかもしれない・・・・・・と考えることがあります。そういった「覚悟」のようなものを、信仰を選択することに関しても感じることが多く、例えば前述の講師(50〜60代)はカトリックの家庭に育ち20代半ばでバプテストに改宗していますが、「それはカトリックの家庭にとってはその家族の葬式を出すことと同じことなのです」と言っていました。彼女の側からしても家族と決別した、という感覚は強いようです。さすがにその後存命だった母親とは交流が復活したようですが、姉(or妹)とはそれ以来今でも一切連絡が途絶えたままだと言っていました。これがメソジストの家庭に育ってバプテストに改宗した、という話であれば決別はそこまで激しいものにはならないようですが、それでも本人(講師とは別の人。正確には父親がメソジストで母親はバプテスト)曰く「誰しも或る段階で選ぶものなのよ」とのことでした。信仰を選ぶにあたって多かれ少なかれ「(それまで親しくしていたものとの)決別」を経るのが普通、という感覚はあるのかもしれません。(そしてそれは結果的に「自分の選んだものが決別したものより優れているという認識」をもたらすものであり、時に敵対という感情を生まざるをえないものなのかもしれません。)ひょっとしたらそういう彼らにとって私は「覚悟の足りない人」と映っているのかもしれないなあ、と時々考えることがあります。(←だからといって「私も何か特定の既成の宗教を選ばなければならない」と思うわけではなくて、この違いはいったい何なのか、何を生み出す可能性があるのか、そういうことが知りたいと思うのです。)
himorogiさん、ども。ええ、わかってますよ。ドイツの場合、「おなじ市民」が崩れてしまったのが問題で、つまり、ナショナリズムが機能しなかったではないか。白バラはそういう文脈にあるかもと書いたけど、そういうところはあまりネットでは読まれてない印象はありました。蒙古襲来絵図についても思うことはあるけど、「虐殺なんか日本にもある」みたいな応答のなかではちょっと引いてしまいますね。ユーラシアにおいて都市民がどのように暮らしているかということが感覚的に日本人には通じないのかもという感じがします。せんとくんが話題になっているけど、あの平城京ですら城壁都市なのに。
saihouさん、ども。ちょっと信仰めいた言い方になるけど、その問い掛けが、私にとっては神が私に問い掛けてくる部分だろうというふうに思っています(神があなたにわかってほしいとしてあなたを立てているのかもしれない)。この問題はそう簡単に解ける問題ではないし、まさにそれが問題なのだということが信仰のなかに統合されるような志向をもつとしか自分などは思えなくなりつつあります。個別に、「カトリックの家庭にとってはその家族の葬式を出すことと同じ」というのもだけど、そうした子どもが司祭になると両親はその足下にひれ伏して感涙するというのもありますね。あの感覚は昔の日本の仏教とかにも通じるかもしれません。

 

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