極東とは?/ アイフル
[ 460] 極東ブログ
[引用サイト] http://finalvent.cocolog-nifty.com/
最初に結論を言うと、「あなたのブログのイヤなヤツ」とは私のことだ。ああ、なんて自分はクソッタレなんだろと思う。 あなたの職場のイヤな奴 それはそれとして、「極東ブログ: [書評]あなたの職場のイヤな奴(ロバート・I・サットン)」(参照)で議論される、職場のクソッタレ(asshole)とネットのクソッタレのことを考えた。サットンによると、職場にはクソッタレ撲滅ルール(No asshole Rule)が必要だということだが、これは職場だからだ。職場というのはゲゼルシャフトなので目的から合理化できる。ひどい言い方をすればクソッタレが目的にかなうならクソッタレ大歓迎だし、社会を見ていると、どうもそういう実態もありなのかもしれないなとも思う。 家族あての遺書には丁寧な字で「お世話になりました」といった記述とともに「ホームページのブログに『死ね』と書き込みされていた」などと書かれていたという。 県警は、生徒の友人らのホームページにこの生徒の悪口が書き込まれていた可能性もあるとみて、学校側に対し「学校裏サイト」の有無や、書き込み、いじめなどがなかったかなどについて調査を求めている。学校側も29日以降調べているが、遺書の内容に該当するような書き込みはまだ見つかっていない。 書き込みは見つかってないことと書き込みがなかったことは別だ。おそらく書き込みはあったのではないか。 ブログの中にいて腐りきっている私などからすると、「死ね」とか書かれても、ああまたキチガイ発生とか思う。ただ、サクっと消すかというとそうでもない。私みたいな糞に向けて言っているくらいならお子ちゃまの甘えでしょ。年取ったんだからそのくらい受け止めなくなくちゃな、私だって若い時はひどかったしなとか思う。本当に攻撃してくる人たちはちゃんとテクニックというものを持ってますよ。幸い本当に攻撃する人たちはお仕事でやっているっぽいので、そうした利害フレームワークがなくなると消える。単純に言えば、「お前みたいなやつの言説が俺たちの利害のシマを荒らすんじゃねー」ということだ。わかりやすい。私はキンタマがないので、ヤクザ的な脅しにはすぐにまいるし、そういう商談的な話はわかりやすくてよろしい。 そろそろ死期も見えるような私に「死ね」とか言うのはご愛敬だが、16歳の少女に言うのはどういう了見なんだ、このクソッタレども、と思う。おそらくブログの世界には私に近い腐ったやつらが満載なんで、これは政府やマスメディアによるネット規制の陰謀だろうみたいな話のほうが受けると思うし、勝手にやってな。なのだが、16歳のこの少女の思いというか、そんなことで死ぬなよというより、そういうふうに死に追い詰めるクソッタレが跋扈しすぎかなという思いのほうが強くなってきている。 ネットのクソッタレどもをどうしたらいいのだろう。私みたいに、えへへへオレのほうがクソッタレだぴょんみたいな老害たれ! というわけにもいかないし、もうちょっとなんとかならないのか。というか、ネットのクソッタレ撲滅ルールはあってもいいんじゃないかとか少し考えた。 先のサットン書籍にはさりげなくドラッカー(参照)が出てくるが、サットンのクソッタレ撲滅ルールの背後には、ドラッカーの思想がある。ドラッカーは、会社という組織は、全体主義(スターリニズム的社会主義とナチズムという民族社会主義)から離れ、社会を安定させる装置たりうるかとして位置づけていた。そういう基本的な枠組み、つまり、社会を構成していくというか、作為の契機のようなものはもうちょっとネットというかブログの世界から内発的にあってもいいんじゃないか。ただ、いわゆる道徳もな、違うかなとは思う。 で、そうだサットンの企業向け、クソッタレ撲滅ルール(No asshole Rule)がブログにも当てはまるんじゃないかと、今朝の仮面ライダーキバを見ていて、紅音也が憑依したかのようにふと思ったので、それってブログっぽいネタじゃんとか思い込んで書いてみる。 基準1/クソッタレと目されている人物と会話をかわしたあとで、”標的”となった人物が憂鬱になったり、屈辱を感じたり、やる気を失ったりするか? とくに重要なのは、標的となった人物が卑屈な気分になるかどうかである。 前回の関連エントリ(参照)では、ネットの場合は、職場と違い人間関係の上下はないんだから、ネットにはクソッタレ撲滅ルールはないだろうなみたいな話を書いたが、そしてそのときにも思ったのだが、ネットの場合は、上下はないとしても、匿名というか黒木ルール(参照・参照)における匿名は、対応上、上位としていいのではないか。その意味で、黒木ルールによる匿名は、ネットにおいて基準2にしてよいか。その点では、アルファコメンターの野ぐそさんとかハンドルはうんこ・ハナゲと変えるけどメールアドレスで一貫していて基準2からは漏れてしまう。逆に、ddcさんは、ハンドル抜いて糞コメするようになったので、そろそろ基準2じゃねーかとか。 基準1は意外と難しい。サットンの議論は実際には起業経営者向けなので、自分が標的になるという視点はやや弱い。だがブログの場合、標的は自分だ。だから、その自分が「憂鬱になったり、屈辱を感じたり、やる気を失ったりするか」というのをどう評価するか。「そんなのお前が打たれ弱いからだよ、気にすんな」で済むことか。私は済むんじゃないかと思っていたし、およそブログを続けるなら、そこは少しずつ「答えはメンタルタフネス♪」(参照)かなと。ネガコメレッドと目される姉御も大愛を抱いているじゃんみたいな。修行修行、只管打坐、みたいな。 でも、違うかな。自分が強くなるのはなんか違うんじゃないかという感じがしてきた。自分が強くなるということで結果的に自分よりナイーブなブロガーの言説を自分は抑圧している側になってきているんじゃないか、という気もしてきたし、そもそも私は強い人間ではない。なんでクソッタレに言われほうだいなんだろやだなというイヤ感を率直に言ってもいいのではないか。 ということで、基準1はけっこうそのブログ主の主観に任せていいんじゃないかとか思うようになった。すると、ブログ版クソッタレ撲滅ルールはこうなる。 基準1/悪意を向けたコメントやトラバでブロガーが憂鬱になったり、屈辱を感じたり、やる気を失ったりするか? とくに重要なのは、ブロガーが対応できずに卑屈な気分になるかどうか? 基準2/悪意を向けてコメントを書き散らしたりトラバを送ってくる、クソッタレと目されている人が黒木ルールにおける匿名であるか? こんな感じでいいんじゃないかな。ってことで、今後その手のクソッタレは撲滅するか、なのだが、ちょっと悩む。意外と甘えてクソッタレている人は傷つきそうだし。 ここでもサットンのお薦めではないけど、ダヴィンチ・ルールで、うだうだせず決めたらさっさとクソッタレ撲滅しろとも言えるのだが、ああ、悩むな。まあ、この手の釣りネタエントリでどのくらいクソッタレが発生するか見て考えるかな。 予防法1は、ダヴィンチ・ルールだ。「最初に抵抗するほうが、あとになってから抵抗するより楽」。それは言えているけど、すこしアソビを持ってもいいか。 予防法2は、「逃げろ、無理なら近づくな」。これは逃げろは難しいか。それでもべたなアフィリエイトトラバでブログのトックバックが死んで許可制にするしかなくなったように、コメントも許可制にするというのはあるな。近づくなは、そういう匿名クソッタレに応答するなというのはある。 予防法4は、「他人の目で自分を見てみよう」だが、これはサットンの場合、端的に企業利益にマイナス影響をクソッタレが持っているかということ。ブログだとよくわからない。ブログの価値は明確ではない。価値、ないんじゃないか。 どうもあまりピンと来ない。むしろ、クソッタレのいる職場で生き延びる方法のほうが、クソッタレに晒されるブロガーが生き延びる方法の役にたつかもしれない。箇条書き的に、ざっくりとまとめてみるかな。 良識のある人たちによって生み出された温かい感情の和も、たったひと握りのクソッタレのせいでブチ壊されてしまう。 クソッタレ撲滅ルールの大切さを人に説くのもいいだろう。しかし、ほんとうに重要なのは、それを実行することである。 エントリ書こうか、こういうのは書かないほうがいいのではないか、書いても意味ないんじゃないかとけっこう逡巡している自分が結局いるので、とりあえず書いてみる。特にまとまった意見も主張もないが。 【カイロ22日共同】日本の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」の中に、悪役がイスラム教の聖典コーランを読みながら主人公らの殺害を命じる場面があり、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていることが二十二日までに分かった。原作コミックスの出版元でアニメ製作も主導した集英社(東京)は同日、問題のアニメのDVDと原作コミックスの一部を出荷停止にすると発表した。 中東では「コーランを読めば悪者になるという趣旨か」などの書き込みが三百以上のサイトに拡大。イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師は「イスラムに対する侮辱で受け入れられない」と非難した。 集英社によると、原作コミックスではコーランは描かれていないが、話の舞台がアラビア語圏だったため、アニメ化の過程で採用したアラビア語の文章を「コーランの一部だとの認識を欠いたまま」使ったという。 この問題は外交問題となりいちおう収まった。「外務省: 日本アニメのイスラムに対する不適切表現について」(参照)より。 5月22日、アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」を制作した集英社とA.P.P.P.社は、イスラムを冒涜する意図は全くない旨述べるとともに、不適切な表現によってイスラム教徒に不快な思いをさせてしまったことをお詫びするとの趣旨の見解を発表した。日本政府は、不注意とはいえ、同アニメの一部内容により、イスラム教徒の感情が傷つけられたことは遺憾と考える。いずれにせよ、異なる宗教や文化への理解と敬意を育み、このようなことが再発しないようにすることが重要と考えている。 (1)集英社とA.P.P.P.社の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」DVD(日本語版の他に英語版も発売)のなかで、悪役が主人公の殺害を命じる場面でコーランが不適切な形で使用されており、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていた。 本件に関する報道の一部に、登場人物が「コーランを読んで殺害指示を出している」かの誤解を招く表現がありましたが、本作品のストーリーには、そのような「コーランと殺害指示を関連づける」ような設定はありません。また、「ムスリムを悪者やテロリストとして描いている」といった事実もないことを、ここにお伝えします。 この追記は、共同の記事に対応しているのではないかと思うが、これについて共同側の応答があったのだろうか。探したがわからなかった。 少し話を戻す。事件を時事で読み直してみる。”「コーラン」登場の批判、昨年から=数百のサイトに−アニメ「ジョジョ」”(参照)より。なお、この部分、事実認識はかなり重要なのであえて、事実の報道であるとの理解で全文引用する。 【カイロ22日時事】人気漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の原作とDVDの一部がイスラム教に関する不適切な表現を含むとして出荷停止になった問題で、同作品中に悪役がイスラム教の聖典コーランを読む場面が出ているとの指摘は昨年からアラビア語のウェブサイト上に現れていた。 昨年6月には「ジョジョ」を見た視聴者がアラビア語のアニメ関係の掲示板で、作品中にコーランが出てくるのは奇妙だと批判的に言及。これに対し「ジョジョ」をアラビア語に翻訳したという人物が「登場人物がコーランを読んでいるだけでイスラムへの侮辱ではない」と作品を擁護した。 今年4月には別のイスラム系フォーラムのサイトで「コーランを読むと悪人になると子供が信じてもよいのか」と批判する投稿が出た。 この話題は数百のアラビア語サイトに広がっているもようだ。ただ、これまでのところ、日本に対する敵対的行動を呼び掛けるといった過激な反応は見当たらない。 〇七年三月ごろからアラビア語の字幕を付けた海賊版がネット上で流通。視聴者の一人が、問題の場面の静止画をサイトに投稿し批判して以降、多数のサイトで書き込みが相次いだ。 今回の事件について私はまず欧米のソースをあたってみたのだが、どれも共同をベースにしており、独自ソースからの欧米報道を見つからなかった。ただし、欧米のソースによってはそのソースの限定性に配慮して共同とは異なった懐疑的なトーンが感じられた。 グーグルでは最近アラビア語の翻訳機能を持っているので、アラビア語圏のニュースも可能なかぎり調べてみたが、欧米と同様で、どうもこの事件は共同以外のソースを見つけることはできなかった。 しかし、時事のニュースは、共同のソースとは別の情報が含まれており、共同から派生したものではない。共同と時事がどのような関係またはきっかけで同時期のニュースとして発信したのかそこがわからない。過去の慣例からすると、共同が出すとすでに事態を知っていた時事が遅れないように出すということがあり、今回もそうなのかもしれない。 アニメで登場人物が持つコーランがいすに落ちる場面が問題と判断したという。原作にはコーランの描写はないが、モスクの描写などが不適切とした。アニメの表現を巡り、イスラム圏のウェブサイトで批判があると、今月上旬、報道機関から指摘があり調査していた。 07年6月ごろ、字幕付き海賊版を見た視聴者がアラビア語のアニメ関係の掲示板で、作品中にコーランが出てくるのは奇妙だと批判的に言及した。(時事) 字幕付き海賊版をアラビア語に翻訳したという人物が「登場人物がコーランを読んでいるだけでイスラムへの侮辱ではない」と作品を擁護した。(時事) 08年4月には別のイスラム系フォーラムのサイトで「コーランを読むと悪人になると子供が信じてもよいのか」と批判する投稿が出た。(共同) 中東では「コーランを読めば悪者になるという趣旨か」などの書き込みが三百以上のサイトに拡大した。(共同) 08年5月22日、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていることが共同に分かったと発表した(読売報道とやや矛盾)。 事実関係でいつかわからない点がある。問題がニュースで取り上げられるに値する問題となったのは、イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師による非難が出たことで、それが出なければ、曖昧な翻訳であるかもしれない海賊版を見ている、世界のどこにでもいる日本アニメ好きさんのもめ事にすぎないし、その時点では外交問題には発展しない。 つまり、どのような経緯で、イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師による非難が出たかが重要になるのだが、そこがわからない。 ファトワーとは本来、「ムフティー」と呼ばれる、ファトワーを発する権利があると認められたイスラム法学者が、ムスリム(イスラム教徒)の公的あるいは家庭的な法的問題に関する質問に対して、返答として口頭あるいは書面において発したイスラム法学上の勧告のことである。ファトワー自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各イスラム法学派の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。 ファトワーであったとしてもスンニ派の場合宗教的な拘束力はない(シーア派では異なる)がそれに準じる権威を持つ。しかも、アズハルの法学者によるであれば外交問題となってもおかしくはない。この点が報道からは見えない。また、ファトワーであれば「返答として」ということなので、誰がお伺いを立てたのかかも気になる。 この問題で次に気になるのは、共同報道の時系列の位置づけだ。この点で重要なのは、集英社に今月初旬指摘したのはどの報道機関なのか?という問題だ。読売が伝えるこの記事からはそこが明らかになっていない。 一般的な報道となったのは、共同のほうが時事より若干先になっているようだが、事実報道において時事が過去の経緯に詳しいことと、また、記事からの印象では共同がこの事態についての認識を持ったのは比較的最近のことらしいことから、時事が集英社に通知したのではないだろうか。 すると、これに関連してどの時点で、アトラシュ師の非難が出たのかが気になるし、ざっと報道をみたところアトラシュ師に言及しているのは共同に限定されるようなのも気になる。 今回の件で、日本のネットの動向を見たのだが、率直にいってどれも上記ソースを超える確かな情報はなかった。逆に不確か情報が迷路にようになっていたし、私もその迷路に戸惑ったがどれも考察に寄与できなかった。が、はてなダイアリ「空き箱」”ジョジョ話に関する英語報道”(参照)と”共同通信のジョジョ問題に関する記事について ”(参照)は事実が手際よくまとめられていて参考になった。 集英社の今回の対処についてだが、私は妥当ではないかと思う。集英社としてはまさかアラブ圏に及んだ海賊版で、共同から”異文化への無知で波紋”(参照)と非難されると思っていなかっただろうし、制作年が01年であることも昨今の世界の様相とは異なる。参考までに共同の指摘はこう。 日本の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」で、悪役がイスラム教の聖典コーランを読む場面が中東のイスラム教徒の強い反発を招いた。世界的な人気を誇る日本のアニメ産業界が異文化圏の宗教や習俗についてあまりに無知であることや、国境を越えるインターネットの普及で、思わぬ地域に視聴者層が拡大したことが背景にある。 それでも今回の対処が妥当だっただろうと私が思ったのは該当シーンを見たからで、これはイスラム教徒なら明らかにコーランの一節であることがわかるほど鮮明だったからだ。この不手際は弁解できないのではないか。 ジョジョの奇妙な冒険(1〜7巻セット) 次に、この事件を欧米がどう見ているのか、報道は日本ソースばかりなので、ブログを読んで回ったのだが、私が見た範囲では、なんで日本はこの問題で怖じけているのか、誤解をちゃんとはらすようにしたらどうかという意見が多かった。確かに、そのとおりだと頷けるのだが、その強気の背景には欧米が起こしたイスラム教徒非難にとられかねない漫画の問題と同じ構図がある。日本がそうした構図に載るのは少し違うのではないかという印象を持った。 対処という点で、自分なり総じてみると、集英社も外務省も妥当だったかな、自分が要所の責任者なら同じことをしただろうなとは思った。 運営ポリシー広告を目的としたトラックバック、引用集からのトラックバック、エントリの内容に関係ないコメントは削除します。 |
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