魅せとは?/ プロミス
[ 249] タイに魅せられてロングステイ
[引用サイト] http://ameblo.jp/hiro-1/
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長い海外駐在生活を終えたhiro-1が念願のタイ国に移り住んで繰り広げる生活のあれこれ。或る時は、大学のタイ語学科でタイ語を学び、歴史学科ではアユッタヤー王朝の外交史を専攻、或る時は、自家用車を駆ってタイ国内の遺跡を巡り、又或る時は、タイの文化を覗き見る自由で気儘な生活写真日記です。 今宵は、この寺院の“ 風変わりな仏塔の謂れ ”を書こうと思って、キーボードに向かったのですが、前回BLOGのタイトル“ �(�陀の遺骨と48人の弟子の遺骨 ”を見て、そんなことをしたら、公約違反を犯すことになってしまうことに気付きました。正直に言って、BLOGのタイトルを “ 仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨 ”ではなく、“ ワット・ヤーン・ナーワーの仏塔 ”とすべきだった・・・などと、今になって女々しく、失礼、男々しく後悔しています。とは言っても、今更、引き下がる訳にも行きません。前回BLOGで公約した本筋の話に戻ることにします。ラーマ三世の生誕200年の記念館(下左写真)の入り口に、“ 仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨 ”を示す白地の天幕(下右写真)が張ってあります。タイ文字を読むと、偶然出合ったA准教授から頂いた宣伝チラシとほぼ同じような内容が書いてあります。タイ人読者の方は、写真をクリックして下さい。読み取りができる大きさになります。左:仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨が置かれた会場入り口右:仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨の公開を告げる天幕会場入り口の階段下で靴を脱ぎ、外気を遮断する厚手の半透明のビニール・シートを押し開くと、内部は照明が落とされて薄暗くなっています。会場の入り口近くの壁周りには、仏陀の遺骨と48人の弟子の遺骨に関わる売り物の史料やペンダントが展示してあるのですが、値段はかなり高めのような気がしました。先ずは、会場の右側の壁と正面奥の壁を背にして安置してある中国から借用した仏像(下写真)を拝観することにしました。重要文化財なのでしょうか、見るからに高価そうな仏像ばかりでした。いつも見慣れたタイ仏教(上座部仏教)の仏像が醸しだす安穏な雰囲気と違い、どこかに緊張感を覚えるような気がしないでもありません。ひょっとして、これが大乗仏教の醸しだす雰囲気なのでしょうか? それとも、僕の感覚がタイ人化してしまったのでしょうか?中国から借用した仏像(200バーツ 約600円で購入した写真のコピーです)実は、残念ながら、この会場内は撮影厳禁でした。僕にとっては、釈尊の遺骨(仏舎利)を見るのは始めての経験だったこともあり、思わずBLOGのタイトルにしてしまった訳ですが、落ち着いて考えて見ると、文章構成に重要な役割を持つ写真を一枚も撮影していないのです。会場の中央部には、小さな照明付きの約80台以上の陳列台が一つずつ、二つのブロックに分けて、各々四列に陳列してあります。人間の目線の高さに設定された台上には、見るからに仏教的な感じがする様々な形をした舎利塔が置かれていました。今回、スリランカ、チベット、台湾、中国から借用した舎利塔に納められた骨粒は、全部で8,800粒に及ぶそうです。舎利塔の形は、スリランカ風の仏塔に似た小さな塔があるかと思えば、宝珠に火焔模様のある塔などがありました。何れの形であれ、中に納められた舎利(遺骨)は外から見えるようになっています。各々の舎利塔の中には、“ 米粒のように小さい白い固形物 ”や“ 宝石のような光り物 ”などが入れられ、それぞれに、釈尊の足骨 、手骨、頭骨、胸骨などのように説明が付けられています。48人の阿羅漢の遺骨(舎利) も、それぞれの氏名が記されていました。釈迦の遺骨 (仏舎利 ????????????????? )の納められた宝珠に火焔模様のある舎利塔この実物は、仏像と並べられて安置してありました。一枚 200バーツ 約600円で購入した写真のコピーいつもは賑やかなタイ人が、神妙な表情をして、遺骨の置かれた台上の仏舎利や舎利に合掌をしつつ、右へ右へと周ります。花輪等を入れたお盆を頭上にかかげて右周りをする人もいます。会場で聞かされた摩訶不思議な話の一部を、僕の意見を加えないで、箇条書きにしてみました。●釈尊の遺骨(仏舎利 ????????????????? )は・・・1:相応しくない人々が遺骨を奉戴すると、消滅することもある。2:丸い粒状で、宝石の如き輝きの色があり、サイズは一定で軽い。3:強い光を発したり、違う色に変化することがある。4:サイズが大きくなったり、数量が増えたりすることがある。5:血液は、白、黄、橙、緑、赤、黒の六色。6:頭骨の色は、部位によって、赤、橙、黄、緑又は桃、青、藍、紫、金の八色。●阿羅漢の遺骨(舎利 ??????? )は、仏舎利よりも大きく、大きさも形状も様々。色の種類もない僕には大きな疑問がありました。火葬にされた釈尊の遺骨が、“ 世界八万余りの寺院の仏塔に配布された ”・・・釈尊の骨の部位がそんなに沢山あるなんて・・・到底信じられることではありません。そんな僕の単純な質問に、会場の説明員は簡単に回答してくれました。釈尊が入滅して200年後、敬虔な仏教徒だったインド、マウリア朝のアショーカ王は、全国七箇所に分骨されていた釈迦の遺骨を集め、細かく粉砕して一粒、一粒に分けさせたのだそうです。会場にいた一般のタイ人男性が、偽物の釈迦の遺骨について説明してくれました。インドから北周りで中国に伝えられた仏教(大乗仏教)では、釈迦の本物の遺骨(仏舎利)が納められたインドの仏塔の前に、持ち込んだ宝石を置いて祈りを捧げ、“ 仏舎利の代用品 ”としたというのですが・・・・会場の中に、釈迦の遺骨 (仏舎利 ????????????????? )の納められた宝珠に火焔模様のある舎利塔(上写真)と仏像が安置された場所がありました。その場所を担当する係の女性が、祈りを捧げて下さいと言って、短い御経を印刷したA4紙(下写真)を渡してくれました。安置された舎利塔と仏像の前に座り込み、頂いた御経文を黙読して見ると・・・現役時代に、会社として行う宗教儀式などの折に、僧侶が唱和していた御経と同じでした。タイ人ならば、小学生でも暗誦している有名な御経です。係りの女性から頂いた有名な御経(上写真)タイ文字に興味のある方は、写真をクリックして下さい。文字サイズ大きくなります。係りの女性が促すので、已む無く、タイ人と一緒に読経することになりました。ナモータッサ パカワトー アラハトーサムマーサムプッタサナモータッサ パカワトー アラハトーサムマーサムプッタサナモータッサ パカワトー アラハトーサムマーサムプッタサプッタン サラナン カッチャーミ タムマン サラナン カッチャーミサンカン サラナン カッチャーミ 会場内に、子供を含めた老若男女の読経が荘重に響きます。信心も何もない僕ですが、何となく心が休まるような気分になれるから不思議です。それでは次回にお会いしましょう。 バンコクの新ビジネス街ともいえるサートン通りにあるホテル内の喫茶室でコーヒを飲んでいた時のことです。僕の後ろの席で雑談を交わしていたタイ人の中年女性グループの一人から、不意に声を掛けられました。チョット驚いて振り返ると、何と! 僕が某国立大学の社会学部歴史学科でお世話になったA准教授でした。余りにも奇遇なので、彼女のお連れの中年女性達に催促されるまで、二人は長々と話し込んでしまいました。彼女の話によると、サートン通りに近いバーン・ラック地区にある王室建立寺院?の“ ワット・ヤーン・ナーワー ” ?????????? に詣でた帰りなのだそうです。別れ際に、『 滅多にないチャンスだから、是非ともヤーン・ナーワー寺院に参拝してね! 』と言って、一枚のA4の紙を僕に手渡し、彼女と友達は去って行きました。チ゛ャオ・プラヤー河の河畔に建つワット・ヤーン・ナーワーの正門彼女に手渡されたA4の紙を見ると、タイ語文章で何やら書いてあります。??????????????????????????????? ????????????????????????????????????....??????? ?????????????? ?? ??????? ???? ???????? ? ???????????平易に要約すると、次のような内容の告知文書でした。『 ヤーン・ナーワー寺院で、世界の寺院からお借りした偉大なる仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨、例えば、プラ・スィワリー・・・をお預かりしています。是非とも礼拝に来て頂きますよう、謹んでご案内申し上げます 』“ 仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨 ”!?!?今ひとつピンと来ません。紀元前に生誕され、紀元前に入滅された釈尊の御遺骨(仏舎利)が、今現在、バンコクの寺院で展示されている!? そんな・・・と眉に唾を付けたくなってしまいます。とは言いつつも、騙されたつもりになって、ワット・ヤーン・ナーワーに出かけて見ました。寺門を入って北側(右手)の建物の入り口に、“ 仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨 ”と書かれた白い天幕がチ゛ャオ・プラヤー河から吹き上がる風になびいています。仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨が展示されている一階遺骨の展示会場は、誰でも自由に見ることが出来ます。会場時間は、09時から21時まで、入場料も駐車料もフリーです。さすがに寺院主催のイベントだけあって、なにもかもサービス満点です。時間もたっぷりと有ります。それに、今になっても“ 仏陀の遺骨と仏陀の48人の弟子の遺骨 ”が信じられず、どうしても会場に入って拝礼する気持ちになれません。久しぶりに訪れた寺院なので、その気になるまで境内を散策することにしました。タイ式と西洋建築がミックスされたこの北側の建物は、この寺院と関わりの深いラーマ三世の生誕200年を記念して1988年に建築されたものですが、本堂でも礼拝堂でもありません。寺院の管理事務とイベント・ホールの役割を併せ持った三階からなる建物です(上下写真)。いつ見ても、清掃管理が行き届いています。建設途上でストップした高層マンションの真下にあります。北側のラーマ三世の生誕200年記念の建物の向かい側(南側)に、文部省の福祉開発センター、政府の宗教局、ボースカウト財団などが入る三階建ての建物があり、隣接して数棟の僧坊が続きます。福祉向上開発センタ、ボーイ・スカウト、宗教関連が入る事務棟寺院建築は、東西を結ぶ線上に、東から本堂、礼拝堂、仏塔と並ぶのが普通だとされています。現在、僕は仏塔の基盤の高さから境内を俯瞰しているのですが、この寺院の東側には中庭があるだけで本堂(布薩堂)の姿が見えません(下写真)。その理由を聞くと、第二次大戦中にチ゛ャオ・プラヤー河畔の造船所に駐留していた日本海軍に行われた空襲の巻き添えを食らって炎上、灰燼に帰してしまったのだそうです。境内向かって左側:北側に建つラーマ三世の生誕200周年記念館境内向かって右側:南側に建つ政府関係の事務棟中央:庭園と駐車場奥側:左側門が出口、中央門閉鎖、右側門が入り口仏塔の上から西の方向へ視線を移すと、チ゛ャオ・プラヤー河畔と仏塔の間に、少しばかり古びた本堂(布薩堂)がありました。礼拝堂らしき建物は見当たりません。戦時中に東側にあった本堂が焼失したとはいえ、その場所を中庭として残し、寺院建設のルールに逆らって西側に本堂(布薩堂)を建てた理由は何なのでしょうか? 何方に聞いても???ばかりで分かりませんでした。東側ではなく、西側に建てられた本堂(布薩堂)次回BLOGに続きます。 《前回BLOGからの続きです》庭園内の小川の手前に、赤茶色をした木造の西洋建築(下写真)が保存されています。この建物の二階から、小川の向こう岸に建つ小さな中世の城郭のような洋館に向けて、支柱で支えられた瀟洒な渡り廊下が延びています。まるで水上に浮かぶアルプスの洒落た山小屋のように見えなくもありません。渡り廊下の向こうに見える赤茶色の木造の西洋建築遠目に見ても、この建物の様式は、前回BLOGで紹介したタイと西洋の折衷型の高床式建築と異なり、従来のタイ風建築では見られなかった三階建ての構造になっていることが見て取れます。早速、この建物(下写真)に近づいて見ると、タイ語で、“ プラ・タムナック・マーリー・ラーチャ・ラッタ・バンサン ”???????????????????????????? と書かれています。タイ語のプラ・タムナック ????????? とは王族の別荘を意味します。この建物(下写真)には、素人の僕が見る限りでは、中部タイや北部タイで生まれた伝統的木造様式は何一つ取り入れられていないように見えます。なんとなれば、季節の風を取り込んでエアコン効果を生む高床式構造、天井を張らないで空気を循環させる切妻構造、各部屋に囲まれるように配置されたテラスなど、タイ風建築の特徴は何ひとつ見当たりません。高床の下部スペースは、一階の部屋となり、今までの一階部分は二階、天井が張られた切妻の破風の内部空間は屋根裏部屋(三階)に姿を変え、屋根には明かり取りの出窓が幾つも設けられています。建物名:プラ・タムナック・マーリー・ラーチャ・ラッタ・バンサン ????????????????????????????プラ・タムナック(別荘)の意味は分かるのですが、その後に長々と続くタイ語の意味が分かりません。近くにいる数人のタイ人観光客に聞いて見ました。A『 プラ・タムナックは王族の別荘御殿を意味するので、多分、王族の名前でしょう 』B『 バンサンは“ 王様の御座 ”を意味する王室語ではないですか?』C『 人名辞典を引かないと分からないが、人名だと思います 』結局、彼等の意見は纏まらなかったのですが、Aさんの意見が、何となくですが、説得力があるような気がしました。因みに、王族の別荘御殿は“ プラ・タムナック ”????????? ですが、一般人の別荘は“ バン・パック・ターク・アーガーツ ”??????????????? と呼んで区別されているようです。この建物の二階から延びる渡り廊下は、小川の反対側に保存されている瀟洒な中世風の城郭(下写真)に通じています。この御伽噺に登場しそうな小城は、晩年のラーマ六世がこよなく愛された“ プラ・タムナック・チャーリ‐モンコン・アーツ ”と呼ばれる有名な別荘御殿(プラ・タムナック)です。渡り廊下で通じている瀟洒な中世風城郭の裏手下の写真は、ラーマ六世のお気に入りの宮殿、“ プラ・タムナック・チャーリ‐モンコン・アーツ ”を正面から見たカットです。外観を見るかぎりは、フランスのルネサンス様式と英国調の折衷建築ですが、内部構造は、タイの熱帯気候にマッチするように工夫されているようです。この日は、タイ国立芸術大学の写真専攻(?)の男女学生が大挙して撮影に訪れていましたが、殆どの学生の関心は、この別荘御殿の建築様式にあるらしく、指導教授の提言を聞きながら、様々な角度から撮影を試みていました。建物名:プラ・タムナック・チャーリ‐モンコン・アーツ ??????????????????????上写真の右端に写っている犬の銅像は、ラーマ六世が溺愛した愛犬“ ヤーレー ”の在りし日の姿ですが、チョット不鮮明なので、ヤーレーのアップ(下左写真)を添付しておきましょう。“ ヤーレー ”は、ラーマ六世がナコンパトムの刑務所を訪れた折に、刑務所長から貰い受けた黒白の入り混じった雑種の仔犬でした。 ヤーレーは、四六時中、王様に纏わり付いて離れなかったといいますから、王様も犬も相思相愛だったのでしょう。左:王様の愛犬ヤーレーの銅像 右:王様がヤーレーを哀悼して書いた長編詩或る夜のこと、成長したヤーレーは、何を思ったのか宮殿を抜け出し、王室護衛隊司令部の敷地内にいた犬と激しい格闘になります。それを鎮めようとした司令部士官は、王様の愛犬のヤーレーとは知らずに銃撃をして殺してしまいます。愛犬の死を悲しんだラーマ六世が詠みあげた哀悼の長編詩が、ヤーレーの銅像の基盤に埋め込まれていました(上右写真右)。タイ人の親子連れがその長編詩を指でなぞりながら読み合っていました。詩歌用の特殊な単語を散りばめた余りに高尚な名文であるがために、僕のタイ語能力では、到底太刀打ちできません。話を本筋に戻しましょう。この時代(日本の大正時代)に至ると、タイの王族や貴族、そして資産家の邸宅は、上記写真のプラ・タムナック・チャーリ‐モンコン・アーツの別荘御殿ほどではないにしても、欧米風の煉瓦建て洋館が主流となり、タイの伝統的高床式木造住居は、急速にその姿を消していったようです。後世になって、現国王の皇太后(故人)が、タイ北部地域の再植林事業の基地として、チェンラーイの山中に建築された“ ドーイ・トゥン・パレス ”(下写真)は、北部タイの伝統的木造建築(ラーンナータイ様式)とスイスの山小屋スタイルを折衷したものですが、これ等は極めて珍しいケースだと思います。スイスの山小屋+北部タイ様式で建てられたドーイ・トゥン・パレス(於:チェンラーイ)その後、タイ風建築⇒西洋館⇒タイ+西洋の折衷⇒西洋式を主とした折衷建築⇒タイ風を主とした折衷建築・・・といったような時代の変遷を経る中で、タイ独特の建築様式が生まれ、確立していくことになります(下写真)。ラーマ六世の宮殿公園内にあった“ プラ・ティー・ナン・ピマーン・パトム ”(下写真)は、その分かり易い一例だと思います。建物名:プラ・ティー・ナン・ピマーン・パトム ???????????????? ?主たる建物の屋根部分にタイ風様式の破風を構成する切妻様式、それに付随する補完的な建物の屋根も何層にも重なるタイ式屋根を採用しています。白い外壁には、西洋式の大きな長方形窓を設けていますが、窓枠を飾る金綺羅金の彫刻、そして窓の開閉扉の絵図などは、何れも伝統的なタイ模様で埋め尽くされています。ラーマ六世がお住まいになられた宮殿公園を訪れた目的は、古代都市公園内で見かけた中部タイの伝統的高床式住居(再現)の本物を見るためだけだったのですが・・・まさか、これほどの歴史的変遷を感じることのできる建築を目の当たりにすることが出来るとは!!、全く予想外のことでした。建築は全く素人の僕ですが、この日は望外の幸いとなりました。 《中部タイの伝統的高床式木造住居の続きです》ラーマ六世王が皇太子時代にお住まいになられた宮殿の公園内に保存されている“ 吉兆の家 ” (ルアン・タップ・クアン ???????????? ) は、“ 中部タイの伝統的高床式木造住居 ”の様式を色濃く残す貴重な建物であることを、前BLOGで二回に渡って記述しました。その写真を今一度掲載(下写真)します。国家芸術局によって保存されている中部タイの伝統的高床式木造住居 この宮殿のある庭園をこよなく愛された皇太子は、ラーマ六世として即位されてからも、バンコクの西部方面へお出かけの際には、このお気に入りの宮殿を別荘として度々活用されたようです。その所為なのでしょうか(?)、この宮殿の庭園内には、“ 吉兆の家 ”(ルアン・タップ・クアン ???????????? )以外にも、タイ式建築と西洋式建築を折衷した興味深い幾つかの建物が保存されています。ラーマ五世(在位1868年〜1910年)とラーマ六世の時代(在位1911年〜1925年)は、押しよせる欧米化の影響を強く受けた時代です。従って、タイ王室、タイ政府高官、タイ貴族などの住居建設に当たっては、西洋の建築技術を積極的に導入した様子が窺えます。欧化政策による近代化は、建築に止まらず、制度、風俗、習慣、服装、生活様式にまで及んだようです。将に、タイの" 文明開化 ”の時代です。チョット面白いと思うのは、タイが欧風化の波に呑み込まれ始めた時期は、日本が明治維新(1868年 明治元年)以降に経験した文明開化の時期と同時代だということです。因みに、この当時の最新技術であった蒸気機関車も、日本とタイは殆ど同じ頃に導入しています。近代化政策と富国強兵策のレールを、同じ時期に歩み始めた両国でしたが・・・何故に現在のタイと日本の違いが生じたのでしょうか? 僕としては大変に興味深い課題ですが・・・BLOGのテーマとしては余りにも固すぎるので已めることにしましょう。話を本筋に戻しましょう。中部タイの伝統的高床式木造住居(吉兆の家)から遠くない場所に、妙な形をした高床式木造建築が保存されていました(下写真)。説明板を見ると、“ プラ・ノンティ・セーンの館 ” ??????????????? と書いてあります。建物名:ルウアン・プラ・ノンティ・セーン ???????????????上写真の高床式の柱は、伝統的な木材ではなく、煉瓦を積み重ねた礎柱が用いられていますが、明らかにタイ風の高床式の考え方を取り入れた建物です。しかし、高床上の薄黄緑色のペンキが塗られた家屋は、タイ様式とは似ても似つかない、典型的な西洋建築です。タイ人観光客の中には、『 タイと西洋の折衷から生まれた美しい建築! 』と感激する人もいましたが、率直に言って、高床式の特徴的な考え方を除けば、タイ風建築の便宜性との和合は甚だ低く、西洋色の極めて濃い建築だと思います。上述の建物から少し離れた所に、プラ・ノンティ・ガーンの館 と呼ばれるエキゾチックな感じのする高床式木造住宅が保存されていました(下写真)。この建築の高床部分の建て方は、先ほどのプラ・ノンティ・セーンの館と同じ手法ですが、高床上に建てられた木造住居は、タイと西洋の互いの特徴を巧みにミックスした住居のように見えます。僕の個人的見解ですが、この建物の折衷度は、上述のルウアン・プラ・ノンティ・セーンよりは、遥かに高いような気がします。建物名:ルウアン・プラ・ノンティ・ガーン ??????????????? 庭園内の小川を挟んで、瀟洒な赤茶色の木造建築と小さなコンクリート製のベージュ色の建物(下左右写真)がありました。それぞれの建物は、スイス風の趣がする渡り廊下で繋がっています。何本もの柱で支えられた水上の渡り廊下は、まるで水上に浮かぶスイス・アルプスの洒落た山小屋のようにも見えます。遠目に見ても、この二つの建築様式は、最初に紹介した二つの高床式建築とは大きく異なり、今までのタイ風建築では見られなかった三階建ての構造になっていることが分かります。小川の両岸に建つ二つの建物と渡り廊下ADSLの調子が悪いのか、PCの御機嫌が悪いのか、スムースにBLOGを書くことが出来ません。続きは次回のBLOGにしたいと思います。 《前回BLOGからの続きです》『 ナコン・パトムに、本物の中部タイの伝統的高床式住居があるわよ!』古代都市公園(ムアン・ボラーン)の係員から耳寄りな情報を得た僕は、早速、バンコクから西へ55kmのナコン・パトム県に向かいました。五月初旬に続いて二回目の訪問です。目指すは、ラーマ六世王(1881年生〜1925年没)が皇太子時代にお住まいになられていた“ プラ・ラーチャ・ワン・サナーム・チ゛ャン ”と呼ばれる宮殿です。走り慣れた国道四号線を西へ走ること一時間弱、ナコン・パトムの町の交差点をUターン、東に少し戻って信号を左折、真っ直ぐ進んだ突き当たりに目指す宮殿がありました。僕 『 大人2名、入場料は幾らですか? 』係 『 二人で60バーツですよ 』(約180円)入場料を払いながら、何気なく告知板を見ると、“ 外国人は50バーツ、タイ人は30バーツ ”と書いてあります。別に誤魔化す気持ちも無いので正直に申告すると・・・僕 『 アノー、僕は外国人ですが・・・ 』係 『 アラ、何年タイに住んでいるの? 』僕 『 五年くらいかな 』係 『 気にしないで大丈夫よ、どうぞお入りなさい 』何が大丈夫なのかよく分かりませんが、お言葉に甘えて“ プラ・ラーチャ・ワン・サナーム・チ゛ャン ”の広々とした宮殿の庭園内へ足を進めました。ラーマ六世が皇太子時代に住まわれた宮殿の敷地に広がる緑地公園緑の木々が茂る敷地内に、瀟洒な別荘のような建物が点在し、運河のような小川、遊戯ボートの浮かぶ池などが配置された様子は、ユッタリ感もあって気持ちが和みます。暫し、小川の傍らのベンチに腰を降ろし、庭園を吹き抜ける涼風に身を委ねます。隣のベンチにいた親子の会話に耳をそばだてると・・・その昔、皇太子だったラーマ六世は、敷地内の宮殿を照らす月を眺めるのがお気に入りで、“ 月が照らす宮殿 ”( プラ・ラーチャ・ワン・サナーム・チ゛ャン ??????????????????? )と命名されたのだそうです。広い園内を移動するための二人の乗りの電動車を勧められましたが、気持ちの良さそうな庭内なので歩いて巡ることにしました。“ 右⇒ ルアン・タップ・クアン ”???????????? (吉兆の家)を示す道路標識に沿って進むと、その小道の木々の緑の向こうに、見たことのあるような赤茶色の木造建築が見え隠れしています。近づくにつれて、建物の全容が次第に姿を現します。間違いありません。これこそ、古代都市公園(ムアン・ボラーン)で見た中部タイの伝統的高床式住居の“ ソックリさん ”、否!、本物の中部タイの伝統的高床式住居 ”です。本物の中部タイの伝統的高床式住居(階段のある場所が正面玄関)古代都市公園(ムアン・ボラーン)では、伝統的高床式住居の周囲を一周することが出来なかったのですが、此処の建物は周囲を巡りながら眺めることができ、高床の床下構造も容易に観察出来ます。地上約2mある高床の下は、想像したよりも広くて高く、乾季の北風、暑季の南風が通り抜けるようになっています。エアコンの無い時代でしたが、自然のエアコン装置の役割を兼ねていたことが分かります。更に、当時、高床式住居に住んでいた農民は、この広いスペースを、農作業や運搬に用いる牛車(クゥイアン ?????? )や洪水で住居が水に浸かった時に用いる小型の木船の置き場、或いは、農作業場、子供の遊び場、ハンモックを吊るして赤子を寝かせたり、家鴨や鶏などの飼育場として有効利用していたと聞きました。本物の中部タイの伝統的高床式住居(正面玄関の真反対側に当たる裏側)家屋の構造材、壁材、屋根材は、伝統に従って耐久性の高いチーク材が使われていました。家屋の周囲に張られたチーク材の外壁には、中部タイの伝統模様と呼ばれる“ ルーク・ファク ”?????? (下左写真)が装飾されています。長方形の窓の開閉戸は内開き方式(下左写真)ですが、やや地上に近い位置にあるテラス(チャーン・バーン ??????? )の壁窓(上写真)には安全を考慮して木製の格子戸が設えてあります。一見すると、古臭い木造家屋の感じがする“ 中部タイの伝統的高床式住居 ”ですが、この当時の家屋は、総チーク材で建てられていたことが分かります。しかし、豊富にあったチーク材も、現在は伐採禁止令が出されて入手困難となり、マホガニーなどの堅木が代用されているのだとか。左:中部タイの伝統模様が施された外壁と内開きの開閉戸右:天井板は無く、丸見えの引っ掛け瓦(撮影:古代都市公園)暑気は南から北への風の通り抜け、乾季は北から南への風通しを重要視する中部タイでは、風の流れを妨げる部屋の天井は張られず、素焼きの赤茶けた無采瓦の裏側とそれを引っ掛ける縦横の桟が丸見えです(上右写真)。この引っ掛け瓦の方式は、現在も、寺院や一般の家屋の屋根で広く用いられています。中部タイの伝統的高床式住居の外周を見終えてから、見学者専用に設けられた階段を上ろうとすると・・・国家芸術局の係員の女性に声を掛けられました。『 手下げ鞄は階下のロッカーへお預け下さい 』『 撮影禁止です 』『 カメラもロッカーへお預け下さい 』何事にも鷹揚なタイですが、国家や王室が管理する寺院や建物は、何故か撮影禁止の場所が多いような気がします。ストロボ光線で痛む恐れのある絵画や芸術品ならば理解できるのですが、このような木造建築でも撮影禁止とする理由が今ひとつ分かりません。とは言っても、ルールはルールです。几帳面で真面目な日本人を代表する一人として、大人しく従ったのはいうまでもありません。見るもの全てが、古代都市公園内の中部タイの伝統的高床式住居と瓜二つでした。部屋の大きさと配置、客間に掲げられたラーマ六世の写真までも同じなのです。古代都市公園で既に撮影済みの僕としては、改めて撮影する必要性は全くありませんでした。タイ人の大金持ちが個人資産を投じて、タイの遺産の復元、移築、再現、保存を図るために造った“ 古代都市公園 ”(ムアン・ボラーン)の価値の偉大さを、つくずく思い知らされました。ラーマ六世の愛した“ 吉兆の家 ”(中部タイの伝統的高床式住居)の見学を終えてから、庭園内に残されている異なったタイプの別荘を巡り歩くことにしました。次回のBLOGに続きます。 昨日の深夜、我が家のADSLが突然ダウンしました。彼是チェックするも原因が分かりません。朝になってADSL契約をしているバンコクの電話局へ連絡、電話の指示に従ってPCを操作するのですが、ダウンの原因が全く掴めません。結局、電話局の技術者が、夕方頃に我が家に出向いてチェックしてくれることになりました。バンコクの電話局の技術者の腕を信じて、このまま、待つしかありません。ということで、本日(28日)のBLOG更新は出来ませんが、若しも、夕方以降に復旧できたら直ぐに更新するつもりです。 《前回BLOGからの続きです》高床式家屋の木製の階段の下で、お気に入りの踵付き皮製サンダルを脱いで階段を上ります。すると、中央部のテラス(チャーン・バーン ??????? )に通じるフロント・リビング・エリアがあります。壁もない吹き曝しの前室から上方を見上げると、中部タイの特徴ある屋根の形(下写真)が南国の青い空に突き出ていました。65度前後もある屋根の急勾配を形成する破風(パン・ロム ?????? )、そして、その高さのある破風が生み出す天井の無い広い室内空間、水の神の龍神(パヤー・ナーク ?????? )を表したとされる長く延びた屋根の庇、これらの特徴は、全て熱帯気候の多雨と高い気温に対応するために考えだされた中部タイの人々の叡智といえます。なんとなれば、雨樋のない急勾配の屋根は、バケツを引っ繰り返したような降雨を一気に地上に流す効果があります。急角度の屋根を支える高い破風(パン・ロム)は、熱帯気候独特の熱風や熱気を室外に排出する作用があります。長く延びた庇は、熱帯の強烈な日差しと豪雨を遮ることができます。水の神の龍神を表現したとされる中部タイの伝統的な屋根の破風(出典:ムアン・ボラーンのガイド・ブック)階段を上った所にあるフロント・リビング・エリアと中央部の広いテラス(チャーン・バーン)の間には、自然石で形作られた小さな池があって涼を誘います(下写真)。中央部に設けられた中庭のようなテラスの広さは、家屋面積の優に半分以上のスペースが割かれています。テラス(チャーン・バーン)を取り巻くようにして、左の東側に居間、右の西側に夫婦の寝室、真正面には大部屋の寝室があり、テラスに面した各部屋の前には、テラスよりも一段高くなったベランダ(ラビアン ??????? )が巡らされています。更に左奥辺りに仏間、その他の場所に台所、水浴び場、トイレなどが配置されています。フロント・リビング・ルームから池越しにみたテラスと母屋どのような類の建物なのか、全く分からないままに、時間潰しのような感覚で入った場所でしたが、この建物は、紛れも無く“ 中部タイの伝統的高床式の住居 ”です。長い間、自分の目で本物を見たいと思い続けて来たものが、不意に呆気なく目前に出現したのですから、全くもって驚き入ってしまいます。チョット話が逸れますが、家族の居間(下左写真)に置かれていた円柱状の陶器を見て、新たな発見をしました。実は、我が家にも、これと同じ形の陶器が二つあります。カンボジア国境をドライブ旅行した時に購入したお気に入りの陶器ですが、今は、我が家の玄関のコーナに置いてあり、靴を履いたり、脱いだりする時、手にしているカバンや傘などを一時的に置く場所として重宝しています・・・ひょとしたら、庭園とか、タイル張りのベランダ等で使用する椅子かな?とは思っていたのですが、部屋の中で用いる椅子だったとは! 知りませんでした。左:家族の居間 右:仏間 (仏間の奥に見える部屋は食料保存庫)客間と思われる部屋(下写真)に入ると、荘重な雰囲気のあるチーク材の壁に、人物の顔写真が数枚掲げてありました。見ると、どれもこれも、見覚えのあるラーマ六世王(1881年生〜1925年没)の写真ばかりです。ラーマ六世(ワチラーウット王)は、タイ人が今でも尊敬して已まないラーマ五世(チ゛ュラーロンゴーン大王)の第二十九子として誕生。十二歳から二十一歳(明治24年〜明治35年)まで、帝王学を学ぶために英国に留学され、英国陸軍士官学校から英国陸軍の将校となられ、更に、オックスフォード大学で歴史学と法律学を修められた方です。タイの歴代王で、海外留学を通して帝王学を学ばれた最初の王様でもありました。ラーマ六世(ワチラーウット王)の写真が飾られた客間またまた余談ですが、バンコクに在住された方なら御存知だと思いますが、ルムピニ公園入り口の銅像の御人がラーマ六世のワチラーウット王です。名君と謳われた父王(ラーマ五世)の跡を継ぎ、ラーマ六世として即位されたワチラーウット王のプレッシャー多き立場は、失礼ながら、如何ほどだったでしょうか。そんなラーマ六世の立場に興味をそそられる僕は、現在、15年の在位期間中に為されたことの史料入手に躍起になっています。帰りがけに、伝統的家屋の仏間に入って写真を撮っていると、先ほどの民族服を纏った女性が、ハスの蕾を花瓶に生けるために入って来ました。さっきから気になっていた疑問を彼女に投げ掛けて見ました。僕 『 ラーマ六世の写真が飾ってありますが、何か関係があるのですか? 』女 『 この建物は、ラーマ六世が皇太子時代にお住みになっていた別荘の復元です 』僕 『 ラーマ六世の時代は、煉瓦で建てられた西洋様式では? 』女 『 西洋館も残っていますが、中部タイの高床式木造家屋も残っていますよ 』僕 『 それは、何処に残っているのですか? 』女 『 ナコン・パトム県のラーマ六世の宮殿に保存されていますよ 』彼女曰く、古代都市公園(ムアン・ボラーン)で僕が見ている“ 中部タイの高床式木造家屋 ”は、ナコン・パトム県のプラ・ラーチャ・ワン・サナーム・チ゛ャン ??????????????????? に残されている“ ルアン・タップ・クアン ”???????????? (吉兆の家)と呼ばれる古い別荘のレプリカだと言うのです。“ プラ・ラーチャ・ワン・サナーム・チ゛ャン ”(月が照らす宮殿)は、ラーマ六世が皇太子時代に建てられた宮殿です。何はともあれ、バンコクから55kmの地点にあるナコン・パトム県に、本物の“ 中部タイの伝統的高床式木造住居 ”を見に行かなければなりません。次回に続きます。 前々から、“ タイの伝統的高床式木造住宅 ”に興味を抱いていました。タイの伝統的家屋としては、約400年〜500年前のラーン・ナー・タイ時代とアユッタヤ王朝時代の頃に確立したといわれる“ 高床式の伝統的高床式木造住居 ”、そして、日本の明治時代に当たるラーマ五世王、その子供のラーマ六世王の時代に取り入れられた“ 煉瓦で建てられた西洋館 ”があります。両者とも魅力的な建築ですが、僕が個人的に興味を抱いているのは、日本の江戸初期に当たる時代に確立したとされる前者の“ 伝統的高床式木造建築 ”です。このタイプは、更に、“ 北部タイ様式 ”と“ 中部タイ様式 ”の二種類(下写真)に分けられます。(左)家屋の西側にベランダを設けた北部タイ様式の俯瞰図 (右)家屋の囲む中央にベランダのある中部タイ様式の俯瞰図(出典:タイ文化ハンドブック)北部様式と中部様式には、建築学的見地から見れば多くの相違があるのでしょうが、僕のような門外漢でも直ぐに見て取れるのは、ベランダ(チャーン・バーン ??????? )が配置されている場所の違いです。北部方式は、ベランダを西側の前面に配置(上左写真)していますが、中部方式は、ベランダを取り囲むように、各部屋が口の字に配置されています(上右写真)。各部屋に囲まれたベランダが中庭のような役割を持っていると説明すればお分かり頂けるでしょうか。チェンラーイ、チェンマイ、ランパーン、ランプーンなどの北部タイを旅行する機会の多かった僕は、幸いにも、現存する“ 北部タイの伝統的高床式木造建築 ”に直接触れるチャンスを何度も得ることが出来ました。しかし、“ 中部タイの高床式木造建築 ”は、見世物的な展示家屋やミニチュア・モデルを見ることはあっても、実際に人が住んでいた本物の伝統的家屋を見る機会に恵まれず、書籍に記載された断面図や配置図(下写真)を眺めながら、彼是と想像を逞しくするしかありませんでした。中部タイの伝統的建築を正面から見た断面図(出典:Thailand Asia book)バンコク東部のサムット・プラカン県の古代都市公園(ムアン・ボラーン)内を見学した時、何気なく立ち寄った古い住居の説明板に“ The Dvaravati House ”と英語で記された説明板がありました。『 まさか、この家が、大昔のドヴァラヴァティ時代の家屋様式? 』『 そんな馬鹿な・・・ 』 英語表記の“ Dvaravati ”に不審を抱き、然らばと、タイ語の説明に目を移すと、“ ルアン・タップ・クアン ?????????? ”(吉兆の家)と書かれています。益々もって、この家の正体(下写真)が何なのか全くもって見当つきません。ルアン・タップ・クアン(吉兆の家)と書かれた古い家屋すると、タイ独特の巻きスカートを穿いた若い女性が、ハスの蕾みの束を小脇に抱えて、ルアン・タップ・クアン(吉兆の家)の中に入って行きます。早速、訊ねてみると、愛想の良い返事が戻って来ました。僕 『 家の中の見学が出来ますか? 』女 『 どうぞ、正面の階段からお入り下さい 』彼女の指差す方を見ると、高さ約2mの高床式の家屋に入るための木製の梯子が二箇所に設けてあります。少し躊躇する僕の背に、『 どちらからでもご自由にどうぞ・・・ 』と彼女の声が掛かります。 画面手前の低い煉瓦塀の間から入ると、左右の入り口に木製の階段があります。二箇所の木製の階段の傍らに、それぞれ緑色の蓋付きの水瓶が置いてあります。多分、塵埃で汚れた足を水で洗って家屋に上がるために設置されているのでしょう。靴を脱いで木製の階段を上がると、赤茶色の素焼きの水瓶(ナーム・トゥム ??????? )が三つ並び、両端の格子には、ココナッツの殻を半分に割った水を飲むための柄杓が二つ備えてありました。素焼きの水瓶の気化熱を利用した冷たい水のサービスは、大昔からのタイの風習ですが、現在でも、タイの其処かしこで、この伝統を見かけることが出来ます。暑い日中に、タイの田舎の家にお邪魔すると、自家で蒸留した自慢の冷水を出されることが多々あります。常夏のタイでは、遠来のお客を“ 心から持て成す作法 ”ですから、無碍にお断りをする訳にも行かず、正直に言って、本当に対処に困ることがあります。幸いにも、今回は“ 心からの持て成し ”を強いられることもなく・・・入り口の階段を上がるきると・・・一気に前方の視界が開けました。思いもかけなかったことですが、“ ルアン・タップ・クアン ”(吉兆の家)は、何と! “ 中部タイの伝統的高床式住居 ”だったのです。次回に続きます。 《前回BLOGの続きです》夕方四時、雨が小降りになった頃を見計らって、バンコクのドゥスィット地区にあるワット・インタラー・ウイハーンへ出かけました。このお寺は初めての訪問でしたが、道に迷うこともなく、約三十分もすると、車窓の前方に、赤屋根の本堂(布薩堂)、そして、高さ四十mの釈尊の立像の上半身が見えて来ました(下写真)。低く垂れ込める雨雲の手前に見える本堂と仏像駐車場の空きスペースを捜しながら、細い路地を奥へと進むと・・・なんとしたことか、行き止まりです。困り果てていると、寺院の係員らしき親切な小父さんが、路地の片側の引戸方式の門を開け、門内の芝地に招じ入れてくれました。門内に車を乗り入れると、なんと! 其処は、遠くからも見えた黄金色の釈尊像(下写真)が立っている庭でした。小父さんの支持に従って、巨大な仏像の足元の直ぐ近くに車を駐車して見上げると、目の前に高さ40mの立像が高々と聳えています。(左)釈尊立像の全身。足元で祈る人間が小さく見えます。(右)釈尊の足元から見上げると、尊顔が遥か上方に小さく見えます。降りそそぐ雨に濡れた釈尊の足元で、ハスの蕾を手にしたタイ人信者が、祈りを捧げます。児童も祈ります。若い青年男女も祈ります。中年も年配者も、全ての人が、ウイサーカ・ブーチャの日に徳を積むために祈ります。釈尊の足元で一心に祈る若い女性釈尊立像が安置された場所の直ぐ隣の敷地にワット・インタラー・ウイハーンの本堂(布薩堂)があります。係員の了解を得て車を置いたまま、徒歩で本堂に向かいました。仏陀伝と思われる色絵が描かれた寺門を通ると、カンボジア風の玉蜀黍スタイルのプラ・プラーン(仏塔)、そして、セイロン風の釣鐘スタイルのチェディ(仏塔)に挟まれるようにして、本堂(布薩堂)の切妻屋根を構成する派手な模様の破風が迎えてくれます。天気さえ良ければ、金綺羅金模様が燦燦と輝くのでしょうが・・・チョット残念です。仏陀伝が描かれた寺門(左) & 雨雲の中で鈍い光を放つ本堂の破風ワット・インタラー・ウイハーンが建てられたのは、アユッタヤー時代後期(江戸時代中期)だとされていますが、当初の寺院名は、ワット・ライ・パリックと呼ばれていたようです。この寺院のシンボルでもある高さ40mの釈尊の立像は、タイ人なら誰もが知っている高僧のルアン・ポー・トーの手によって1824年(江戸時代中期、文政七年)に完成されました。現在は、ルアン・ポー・トーの像が安置された瞑想室のある寺院としても知られています。僕も入室して瞑想の真似事をしてみました。閉じられていた本堂(布薩堂)の窓扉が、いつの間にか開かれ、三々五々、僧侶が集い始めました。間もなく、僧侶が一同に揃って行うウイサーカ・ブーチャーの夕方の読経が始まります。 左:閉じられた本堂の窓 、中:高僧ルアン・ポーの坐像 、右:開けられた本堂の窓開け放たれた窓から堂内を覗き込むと、天井と壁の全面に仏陀伝らしき絵画が描かれ、正面の御本尊の背面の壁には、大きな寝釈迦像が描かれていました。二十五人前後の僧侶が本堂(布薩堂)に集うと、筆頭僧の音頭とりによって、ウイサーカ・ブーチャーの夕方の読経が始まりました。荘厳な読経の声が本堂内の隅々に響き渡ります(下写真)。意味は分からなくとも、読経には、心に満ちる音楽と同じような要素があるような気がします。本堂(布薩堂)でウイサーカ・ブーチャーの夕方の読経をあげる僧侶低い塀に囲まれた本堂や仏塔の外周は、信者が巡ることの出来る回廊になっています。タイ仏教では、低い塀に囲まれた回廊(下写真)のことを、ターン・プラ・タクスィンと呼び、神聖な本堂や仏塔の周りに設けられています。ウイサーカ・ブーチャーの日の満月が出る頃になると、仏教信者は、灯りの付いた蝋燭とハスの蕾みを手にして合掌し、回廊を時計回りに三巡します。この右遶三匝(うにょうさんぞう)の行為を、タイ語で、タクスィン・ナー・ウォラ・ロッツと呼びますが、ウイサーカ・ブーチャーの日の右周り三巡は、特に大きい善果があると信じられています。僧侶の読経が終わると、気の早い二人の信者が、今日のような雨天では、満月が出ることもないと思ったのでしょうか、それとも、小雨の間に済まして置こうとでも考えたのでしょうか、右遶三匝(うにょうさんぞう)の行為を早々と始めました(下写真)。右回りに三回巡って積徳の行為を行う本堂の回廊と右遶三匝を始めた二人の信者すると、それを見ていた多くの信者が、次から次へと本堂の回廊(ターン・プラ・タクスィン)に裸足で上がり、火を灯した蝋燭とハスの蕾みを合掌した手に挟みながら、右周り三巡の積徳の行為を始めたのです。時折強く吹く風が、直ぐに蝋燭の灯りを消してしまいそうになります。蝋燭の灯りが消えると、善果が薄くなるために、灯りを点け直してやり直さなければなりません。蝋燭の灯りが消えないように、思わず合掌の手を解き、片手で蝋燭の灯りを守ります。蝋燭の灯りが消えないように・・・本堂の回りを右回り三巡する信者暗くなるにつれて、本堂の回廊を巡る信者の数がドンドン増え始め、遂には、信者の列が回廊の周りを埋め尽くす状態になります。祈りを呟きながら回る人、目を薄く閉じて回る人、何かを語り合いながら回る人、祈る姿は千差万別です。回廊の周りを埋め尽くす信者の列(於:帰途に立寄ったワット・パトゥム・ワナー・ラーム・ラーチャ・ウォラ・ウィハーン)数日前に、タイの友人が、いつに無く厳かな表情で、僕に言ったことを想い出しました。『 ウイサーカ・ブーチャーの日は、朝から夜に至るまで、法喜の境地に浸ります 』『 早起きして寺院に行き、僧侶にタック・バーツ(寄進)を行います 』『 その後で、僧侶から仏陀伝の法話を聞きます 』『 夜は寺院に参拝、蝋燭に火を灯して合掌し、寺院の回廊を右回りに三度巡ります 』日本の潅仏会(花祭り)とは、似ても似つかぬタイの“ 仏誕節? ”、“ 三仏忌? ”、“ 三仏節? ”つまり、神聖な ウイサーカ・ブーチャ( 誕生、成道、入滅 )の祭事でした。 《昨日のBLOGからの続きです》ウイサーカ・ブーチャ(仏誕節?)を祝う山車が、寺院の本堂の側に飾られていました。山車上の仏塔、法輪などの全てが生花で造られています。ウイサーカ・ブーチャ(仏誕節?)の飾り山車午前中のタック・バーツ(托鉢僧への寄進)を終えた仏教信者は、法話が行われる大サーラー(集会所)へと移動します。会場玄関の象牙二対に守られた仏壇に祈りを捧げた人々は、赤い座布団の敷かれた法話会場へと進みます。象牙二対に守られた法話会場の仏壇大広間で行われる法話の様子は、会場内に設けられた二つの大型画面でも視聴することが出来ます。法話の内容は、人間としてあるべき姿、人間に付いた錆びを取リ除くには・・・など等のような説法が為されていましたが、法話を聴き慣れていない無宗教者で外国人の僕には、その真意を究めるなんてとても出来そうにありません。法話に耳を傾ける在家信者ウイサーカ・ブーチャーの午前中のイベントは、法話の会の終了によって休憩に入ります。一般信者は、夕方から始まる儀式までの間、自宅に戻って休憩する人が多いと聞きました。雨で濡れた僕も、自宅に戻って出直すことにします。帰りがけに、満面の笑みを浮かべながら、黄金色の仏像を寺院に寄進する御金持ちの信者(下写真)を見かけました。一方、お金持ちではない普通の信者は、寺院用の小さな屋根瓦に自分の氏名を書いて寄進します。自分の立場に合った寄進をして徳を積めば、来世の冥福を得ることが出来る、つまり“ 天国に行ける ”と信じられているのです。仏像を寄進するお金持ちの信者(左)& 普通の人が寄進する一枚、一枚の屋根瓦 さっきまで順番を待つ人で混雑していた“ 生まれ曜日別の守り本尊 ”ですが、午前の部が終わった今は閑散としています。寺院の係員が賽銭壺(バーツ)に溜まったお賽銭を回収していました。生まれ曜日別の守り本尊の前に置かれた賽銭壺このBLOGのタイトルは、『 タイ仏教の仏誕節(花祭り)? 』 としました。タイ日辞典を見ると“ ウイサーカ・ブーチャ = 仏誕節 ”と翻訳されているからですが・・・僕の個人的見解としては、“ ? ”なのです。タイでは、釈尊の誕生日、釈尊の悟り日、釈尊の入滅日の全てを、同じ日として捉えているのですから、“ 仏誕節 ”という訳語では、三分の一の意味しか表していないことになりますよね。仏教大学中退の僕の友人は、僕の疑問に賛同して、“ 三仏忌 ”が適訳だと言います。なるほど、さすが仏教大学中退者とは思いますが、僕としては、“ 忌避、禁忌、忌中、遠忌 ”を連想する“ 忌 ”の漢字に今ひとつ納得がいきません。“ 三仏忌 ”よりは、“ 三仏節 ”の方が良いのでは・・・無宗教の癖して、柄にも無く抵抗してしまいました。自宅でタイのテレビを見ながら休憩していると、バンコクのドゥシット地区にある寺院の中継画面が映し出されました。高さ40mの釈尊の立像で有名なインタラ・ウイハーン寺院です。恥ずかしながら、観光ツアーを利用したことが無い僕は、未だに一度も行ったことがありません。丁度良い機会なので、夕方からのウイサーカ・ブーチャ、僕の個人的訳語で表現するならば、“ 三仏節 ”の見学は、自宅から遠く離れていますが、ワット・インタラ・ウイハーンに、急遽、変更することにしました。次回に続きます。 |
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